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チャガタイ・ハン国

by eiga



チャガタイ・ハン国, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=205656 / CC BY SA 3.0

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#イスラム王朝
#チャガタイ家
チャガタイ・ハン国 Цагаадайн Хаант Улс Tsagadaina Khaanat Ulus 13世紀のチャガタイ・ハン国の支配領域 チャガタイ・ハン国は、13世紀から17世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家(ウルス)である。
モンゴル帝国の建国者であるチンギス・カンの次男チャガタイを祖とし、その子孫が国家の君主として君臨した。
14世紀半ばにチャガタイ・ハン国は東西に分裂し、東部のチャガタイ・ハン国はモグーリスタン・ハン国とも呼ばれる。
内乱、外部の遊牧勢力の攻撃、スーフィー教団の台頭の末、18世紀末にモグーリスタン王家を君主とする政権は滅亡した。
西部のチャガタイ・ハン国ではハンに代わって貴族が実権を握るようになり、地方勢力間の抗争とモグーリスタン・ハン国の侵入を経てティムール朝が形成された。
西チャガタイ・ハン国の貴族やティムール朝の創始者ティムールは傀儡のハンを置き、ティムールはチャガタイの弟オゴデイの子孫をハンとしたが、1403年以降はハンを擁立しなかった。
チャガタイ・ハン国の軍事力の基盤となった遊牧民たちは王朝の創始者であるチャガタイの名前から「チャガタイ人」と呼ばれ、「チャガタイ」は中央アジアに存在するモンゴル国家を指す言葉として使われるようになる。
中央アジアで成立したトルコ系の文語は「チャガタイ語(チャガタイ・トルコ語)」と呼ばれ、ティムール朝の時代に確立される。
「チャガタイ・ハン国(Chagatai Khanate)」という名称はヨーロッパ人研究者によって後世つけられた名称である。
『集史』などの同時代のペルシア語史料ではチャガタイ家の勢力を指してاولوس چغتاي(Ulūs-i chaghatāī)と呼称しており、モンゴル史研究者の間ではこれに基づいて「チャガタイ・ウルス」と表記されることも多い。
また、チャガタイ・ハン国は「中央王国」という名称でも呼ばれていたことが近年になって明らかにされている。
例えば、1340年代に大元ウルスを訪れたジョヴァンニ・デ・マリニョーリはアルマリク(チャガタイ・ハン国の首都)について「中央王国(Imperium Medium)のアルマレク」と呼称しており、ここで言う「中央王国(Imperium Medium)」がチャガタイ・ハン国を指すことは明らかである。
また、1375年に作成された『カタルーニャ地図(カタラン・アトラス)』ではチャガタイ・ハン国に当たる地域を「メディア王国?(Imperi de Medeia)」と記しているが、これも「中央王国(Imperium Medium)」の誤写であると考えられている。
以上のラテン語史料の他、イブン・バットゥータはアラビア語で「彼(タルマシリン)の[領有する]地域は、現世における四人の大王たち、すなわちシナの王、インドの王、イラクの王とウズベクの王の丁度真ん中に位置している」と記録しており、この記述はチャガタイ・ハン国がまさにユーラシアの中央部に位置することから「中央の国」と呼ばれていたことを示唆する。
松井太はトゥルファン出土のウイグル文字文書に「[欠落]-dadu mongγo[l] u(l)us」という表現が見られることを紹介し、「中央王国(Imperium Medium)」という用例を踏まえてこれを「中央モンゴル国(dumdadu mongγol ulus)」と読むべきと論じた。
その上で、「中央モンゴル国(dumdadu mongγol ulus)」という表記はドゥアがオゴデイ家を中央アジアから駆逐してチャガタイ・ウルスを復興させた後、その後継者(チャガタイ・ハン)たちが自らの政権の正当性を示すために採用した「国号」ではないかと推測している。
チャガタイの像 13世紀前半にモンゴル帝国の創始者チンギス・カンが次男のチャガタイにアルタイ山脈方面をウルス(所領)として付与したことが、チャガタイ・ハン国の始まりである。
チンギスがチャガタイに与えた4つの千人隊は、チャガタイ王家に代々継承されていった。
チャガタイの下に置かれた遊牧民は、モンゴル帝国が征服事業によって獲得した農耕・定住文化圏には入らなかったと考えられている。
チンギスの三男オゴデイの治世、チャガタイの領土はハンガイ山からジャイフーン川の間に広がり、チャガタイは伝統的なモンゴルの法律(ヤサ)の遵守に務めた。
チャガタイは春と夏の期間はアルマリクとクヤスにオルド(幕営地)を置き、秋と夏にはイリ河畔に滞在した。…